織田信長時代の天正7年(1579)、九州のキリシタン大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠は来日した宣教師のヴァリニャーノの勧めを受け、少年使節団をローマ教皇に派遣することとなりました。
13歳の伊東マンショは宗麟の正使、また少年使節団の主席正使として派遣されました。。
天正10年(1582)2月、少年使節団はローマを目指して長崎の港を出発。
2年半後の天正12年(1585)3月、待望のローマ入りをしました。
少年使節団は、時のローマ教皇グレゴリウス13世に日本の服装で拝謁しました。
さらにヨーロッパ各地で歓待され、キリスト教だけでなく、西洋音楽や印刷技術も学びました。
天正18年(1590)に8年ぶりに帰国したものの、宗麟は3年前にこの世を去っており、待っていたのは秀吉の厳しい禁教令でした。
その後、伊東マンショは神父として、ひそかに匿れキリシタンに布教を続け、43歳で病没しました。
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