府内は聖フランシスコ・ザビエルがこの地で布教して以来、日本で最初に西洋文化が栄えた町となりました。 弘治3年(1557)、府内教会では復活祭に聖歌隊が結成され、オルガンの伴奏で讃美歌を合唱しました。 以降、府内の町からは、美しい讃美歌の歌声が流れるようになりました。 また神父からビオラ…
海の向こうからやってくる、様々な夢や希望や生きものたちを迎える門をイメージしてつくられている絵本作家荒井良二氏によるオブジェ
下郡神楽は霜凝神社の氏子となる滝尾地区、南下郡、北下郡の住民で行われます。 五法礼氏、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)や柴引きなどの神楽が行われます。 最後の方にチャリと呼ばれる道化師が出てくる神楽を下郡神楽オリジナルとして行っております。 田植えの様子を面白おかしく演じ、当時のおおらかな雰囲気が楽…
織田信長時代の天正7年(1579)、九州のキリシタン大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠は来日した宣教師のヴァリニャーノの勧めを受け、少年使節団をローマ教皇に派遣することとなりました。 13歳の伊東マンショは宗麟の正使、また少年使節団の主席正使として派遣されました。。 天正10年(1582)…
大分駅府内中央口広場に、この大友宗麟公像は設置されています。 キリシタン大名として知られる大友宗麟は、フランシスコ・ザビエルを招いてキリスト教に帰依し、少年使節団をローマ教皇に派遣しました。 また、西洋の文物を積極的に取り入れた街づくりを行い、当時の大分は、日本における西洋文化の発信地と…
弘治3年(1557)、府内に日本最初の西洋式病院が建ちました。 そこではポルトガルの青年医師アルメイダによって、内科はもとより、日本最初の洋式外科手術が盛んに行われました。 病院には入院の設備もあり、永禄5年(1562)には入院患者が100人を超えていました。 患者はこの新しい南蛮医術にあ…
南蛮BVNGO交流館は”宗麟の生きた時代を体験できる施設”を コンセプトに、大友氏遺跡や大友宗麟の功績について、工夫を 凝らした展示や迫力のある映像等で紹介する施設です。 4つのゾーンがあり、それぞれ興味のあるゾーンで歴史体験を 楽しめます。 また、展望デッキか…
西寒多(ささむた)神社は、かつて豊後国唯一の大社、豊後一の宮といわれていました。 境内のふじは県内外でも有名です。 5月のゴールデンウイークには、ふじまつりが行われ、西寒多子ども神楽や子ども相撲大会も行われます。
永禄3年(1560)のクリスマス、豊後府内(大分市)のキリスト教会で、信者によって「アダムの堕落と贖罪〔しょくざい〕の希望」、「ソロモンの裁判を願った二人の婦人」などの西洋劇が、日本で最初に演じられました。 以来、府内教会ではクリスマスや復活祭に、聖書にもとづく数々の宗教劇が演じられるようにな…
大分神楽社は、平成9年に発足し、大分市稙田地区を拠点に活動しております。 流派は庄内系で、テンポの速い舞が特徴となっております。 大分県下には沢山の神楽社があるなかで当社はいわゆる新参者であり、その分自由な形で試行錯誤しつつ練習をしております。 また、県下では珍しく女性の団員も2名在籍してお…
「荒城の月」などを作曲した瀧廉太郎は、ドイツ留学から帰国したのち、父の故郷である大分市稲荷町(現在の大手町2丁目)で療養していました。明治36年(1903)6月29日、自宅にて23歳の若さで亡くなりました。 朝倉は竹田高等小学校で、瀧の3年後輩であり、銅像の背面下部に朝倉文夫自筆の…
1,966席の高品位ホール「グランシアタ」と710席収容の「音の泉ホール」に加え、 6つの会議室、練習室、映像小ホール、県民ギャラリーまで備えた総合文化施設です。 4階部分にある6つの会議室は、会議および研修の各用途にもご利用いただけます。 全室で映像設備の利用が可能で、ビジュアルプレ…