日本でも数少ない海の上の国道を往来します。 九州と四国の国道を結ぶことから名づけられた社名が 「国道九四フェリー(こくどきゅうしフェリー)」です。 九州の佐賀関と四国の三崎を最短航路で結び、 1日16便70分間で運行します。 佐賀関のターミナルビル1階には、売店があり出発前に大…
長曽我部信親は、安土桃山時代の武将で、土佐国の戦国大名である長曽我部元親の嫡男です。 天正14年(1586)12月、豊後へ侵入した薩摩の島津家久の軍勢と、豊後を死守しようとする大友宗麟・義統父子による戸次川の戦いがありました。 大友宗麟を助ける豊後・四国連合軍には、長曽我部元親・信親父子の他…
「白黒と 争う碁洞(ごとう)劫ノ浦(幸之浦) 波より他に 打つ人なし」の句です。 肥後の殿様がこの碁石の浜で詠ったといわれるもので、白黒の碁石浜の地名をうまく織りこんで詠っています。
日本庭園風の優雅な公園内には殉教記念碑と説明板が建てられ、豊後国におけるキリシタン殉教の歴史を教えてくれる。 かつて、府内の地は国主大友宗麟が保護したため、キリスト教が目覚しく繁栄したところである。 それだけに、ひとたび禁教の嵐が吹きすさんでは、その被害も大きく県下いたる所に尊い殉教の血…
古宮古墳は、大分自動車道のインターチェンジから東に約1.3キロ、 椎迫丘陵の南斜面の中腹に作られた南北約12.5メートル、東西約12メートルの方墳です。 墳丘は土砂の流出などによって石室が露出している部分があるなど、本来の姿は失われています。 古墳の造られた時期については、石室の形態な…
国指定史跡。天平13年聖武天皇の詔勅によって全国に建立された国分寺のひとつで、国の史跡に指定されている。スギの大木やカシ、シイなどの樹木に囲まれた森の中にあり、寺跡には薬師堂と観音堂が立っている。全国的にみて、上野国、相模国と並んで三指に数えられる規模という。この広大な旧寺域と見られる約5万平方メー…
正保2年(1645)の創建で、行方不明だった宇佐神宮神宝の剣が発見されたことに由来する 八幡宮です。 剣が発見されたことを聞いた肥後熊本藩主細川光尚公は嫡男綱利公の誕生にあわせ、これを吉事と喜び社殿造営を命じたといわれています。 …
豊府の岩屋寺に鎮座したのが始まりです。 後に大友氏初代能直〔よしなお〕が国中の疾病流行退散を願って、京都の祇園社を勧請し、以来大友氏の尊崇が厚く、江戸時代に入ってからは歴代の府内藩主が崇敬しました。 江戸時代には、祇園社(祇園宮)の呼称で呼ばれていましたが、明治以後に弥栄神社と呼ばれ…
長濱神楽は、大分市内で最初に行われる夏まつり”長濱神社祭典”を皮切りに、各神社に奉納しています。 大分の神楽は御嶽流、深山流、浅草流、豊後流、伊勢流などがありますが、長濱神楽は、豊後流に属します。 太鼓のばちが短く、テンポが速いのが特徴です。
1501年(文亀元)に創建された浄土宗西山派の寺院。 開祖・文忠梵英榮(もんちゅうぼんえい)上人が仏道修行のために、諸国を巡った折に豊後国を訪れたところ、その徳のすぐれた人望に深く感動した大友氏第18代親冶(ちかはる)が、上人を府内町に引きとめて建立した寺です。 それ以来500年以上この地にあり…
大分市の南西、賀来川のつくる河川段丘上に、千代丸古墳と称する横穴式石室古墳があります。 もともと封土は完全な盛土であるが、周囲が削り取られ、墳頂付近の封土も著しく流失して、いまはそれもわずかに石室を覆う程度に存在するだけです。 壁画が描かれており、画法はごく原始的で、人物、獣類を線であら…
元町石仏より北に約300m、県立芸術文化短期大学の東側崖地に大臣塚〔だいじんづか〕と呼ばれる前方後円墳(全長約50m、後円部が直径約35m、高さ約13m)があります。 この古墳は、崖際にあるため、保存状況はあまりよくありませんが、後円部は完全に残っています。大臣塚という名称は古くから地元に伝わ…