大分市の南西、賀来川のつくる河川段丘上に、千代丸古墳と称する横穴式石室古墳があります。 もともと封土は完全な盛土であるが、周囲が削り取られ、墳頂付近の封土も著しく流失して、いまはそれもわずかに石室を覆う程度に存在するだけです。 壁画が描かれており、画法はごく原始的で、人物、獣類を線であら…
元町石仏より北に約300m、県立芸術文化短期大学の東側崖地に大臣塚〔だいじんづか〕と呼ばれる前方後円墳(全長約50m、後円部が直径約35m、高さ約13m)があります。 この古墳は、崖際にあるため、保存状況はあまりよくありませんが、後円部は完全に残っています。大臣塚という名称は古くから地元に伝わ…
佐賀関のシンボル「関の権現様」として親しまれている早吸日女神社は、歴史と漁業のまち佐賀関の中心部にあり、海上安全の神・厄除開運の神として古くから、佐賀関は元より、海に携わる多くの民の信仰をあつめています。 全国でも珍しい「蛸断ち祈願」が有名で、絵馬の代わりに多くの張り絵が拝殿の内部に奉納されて…
松平忠直は徳川家康の孫で、13歳で越前国北庄(福井)藩主になった人物です。大阪夏の陣に大きな軍功を挙げましたが、少ない恩賞に不満が募ったこともあり、酒色におぼれて参勤交代を怠たり、家臣や領民を殺害するなどの乱行が目立つようになったといいます。幕府は、他の大名へのみせしめもあって、1623年に忠直を処…
建久7年(1195年)大友氏初代当主の能直が、源氏の氏神を祀る鎌倉の鶴岡八幡宮から分霊したと伝えられるお宮です。大友氏の氏神として歴代当主の厚い信仰を受け、21代当主の大友宗麟も神殿を修繕しています。 境内には御神木が並び、中央に御神霊を奉る神殿、子ども守護の樽神社や神楽殿が鎮座しています。 …
曲石仏は、森岡小学校門前にある市の揚水場から幅30センチ程の林の中にある道を約70メートルほど下ると小さな広場があり、ここの南面の石窟の中にあります。 石仏は、向かって左の石窟は阿弥陀三尊像で、中尊は上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)を結び鱗型四段葺の蓮華座の上に坐し、向かって右が観音菩…
上野墓地公園の東側にある階段を下り、県立大分上野丘高校に行く途中、律院にある大きな寺院が真言宗の清龍山金剛宝戒です。 元々、大分市羽屋(はや)にありましたが、6代大友貞宗〔さだむね〕が、同地域は低地で水害の恐れがあるとして、徳治2年(1307)、現地に大伽藍を移転したといわれています。 この…
広徳山万弘寺は、坂ノ市市街地の中心部にある小さな寺であるが、用明天皇の御病気平癒の祈願所として創建されたといわれる県下でも最も古い寺です。当時は用明天皇御祈願の霊地として仏徳高く、信者の礼拝は数万を越えたと言われたが、度々の火災によって寺の規模も縮小され、現在の小庵となりました。現在の建物は昭和…
幕末から明治にかけて活躍した、鶴崎出身の儒学者・毛利空桑の関連資料を集めた記念館です。 旧宅である天勝堂や、約900人の門下生を指導した私塾「知来館」の見学ができます。 空桑の著作や詩作などの遺品を収蔵・展示しています。 ※毎月展示品が変わります。 …
貞観2年(860年)に国司・藤原朝臣世数が、奈良の春日大社の四所大神をお迎えしたとされる、県内有数の古社です。 大分市中心部に位置する境内は約8000坪あり、参道左右の大クスに代表される緑あふれる憩いの杜になっています。 ~春日神社の四祭神~ ・竹武甕槌命(たけみかづちのみこと)…
嘉慶元年(1387)11代大友親著〔ちかあき〕が一寺を創建して、万寿寺に在住していた獨芳清曇師を開山として招じたといわれています。 明応2年(1493)、17代大友義右〔よしすけ〕が修理を加え、京都南禅寺の才伯禅師を招じて住持としました。 義右は、大智寺に葬られたとされますがその墓は現存…
岩屋寺石仏から背後の丘を切り開いて作った道路を、北に約150M登った上野丘台地東端の見晴らしのよいところにあります。 この寺は大友氏の崇敬あつく、5代大友貞親〔さだちか〕が嘉元3年(1305)、比叡山より道勇和尚を招いて中興の祖とするとともに、総社山の山号がつけられたといいます。 さらに…