大野川河畔東岸の丹生台地にある広大な遺跡です。丹生台地は河川段丘で、最後部は102m、遺跡は南北約1キロに渡って分布しています。昭和37年2月に旧石器が発見され、その後の発掘調査では礫器剥片せつぞく等が出土しました。縄文弥生時代の土器も広範囲に分布し 、「九中九塚」の伝説を持つ古墳群もあり、台地のす…
承和3年創建。旧県社。 賀来神社秋季大祭は、卯酉年(6年に1度)に大名行列が行なわれる、善神王さまの祭典です。 150名からなる行列が進み「コラッサ」のかけ声で傘投げなどの妙技がみられます。 大名行列は、初日、6日目、最終日の晩に神社近くで行なわれます(卯酉の年は11日まで)。…
桜の名所としても知られ、毎年約60本ものソメイヨシノが咲き始めると、花見客で賑わいます。 満開の時期に城址の石垣に上ると、桜が絨毯のように広がって見えます。 多目的トイレも完備されています。
肥後藩主加藤清正公が、関ヶ原の戦功により授かった豊後鶴崎と熊本を結ぶ肥後街道です。 後に肥後藩主の細川公も参勤交代の道として利用しました。 その一部である石畳の道が今市に現在も残っており、当時の面影を色濃く残しています。 通称「今市の石畳」は、豊後岡藩の宿場として中川氏によって設けられ…
初代の名通上人が15歳のとき、父親順信と共に船で門司に向かっていたが、風波のため、佐賀関の古宮に上陸、古宮のお宮に参拝し、名通上人はそのまま当地に残り住みつき、元和元年(1615年)に父親順信が建てた沖ノ島の徳応寺を佐賀関に移し再建しました。 幕末期には、坂本龍馬、勝海舟の一行がこの寺を訪…
戸次川の古戦場跡には、武将・長曽我信親(ちょうそかべ のぶちか)の墓があります。旧存の碑が破損したため、西村亮吉(元 大分県知事)が新しく建設したものです(明治22年建立)。
佐賀関の半島の先の方に関崎海星館があり、さらに突端に関崎稲荷神社と灯台があります。 その灯台の近くに、関崎地蔵はあります。 養老年間(717~724年)に、役小角(えんのおづぬ:修験道の祖)により航海安全を祈願して祀られたことから「波除地蔵」の名があり、また「地蔵崎」とも呼ばれています。…
大分川流域で最大規模の小円墳です。 6世紀後半から7世紀初頭に造られた古墳で、横穴式石室内には家型石棺が安置されています。 大変貴重な古墳で、県指定史跡です。古墳は羨道部が長さ4m、幅1.7m、高さ1.5m、玄室は奥行2.5m、高さ2.1m。 大分市指定名木のムクノキが丑殿古墳(丑…
日本でも数少ない海の上の国道を往来します。 九州と四国の国道を結ぶことから名づけられた社名が 「国道九四フェリー(こくどきゅうしフェリー)」です。 九州の佐賀関と四国の三崎を最短航路で結び、 1日16便70分間で運行します。 佐賀関のターミナルビル1階には、売店があり出発前に大…
長曽我部信親は、安土桃山時代の武将で、土佐国の戦国大名である長曽我部元親の嫡男です。 天正14年(1586)12月、豊後へ侵入した薩摩の島津家久の軍勢と、豊後を死守しようとする大友宗麟・義統父子による戸次川の戦いがありました。 大友宗麟を助ける豊後・四国連合軍には、長曽我部元親・信親父子の他…
「白黒と 争う碁洞(ごとう)劫ノ浦(幸之浦) 波より他に 打つ人なし」の句です。 肥後の殿様がこの碁石の浜で詠ったといわれるもので、白黒の碁石浜の地名をうまく織りこんで詠っています。
日本庭園風の優雅な公園内には殉教記念碑と説明板が建てられ、豊後国におけるキリシタン殉教の歴史を教えてくれる。 かつて、府内の地は国主大友宗麟が保護したため、キリスト教が目覚しく繁栄したところである。 それだけに、ひとたび禁教の嵐が吹きすさんでは、その被害も大きく県下いたる所に尊い殉教の血…