1300年に逝去した大友氏3代当主頼泰の墓。 現在の五輪塔は、文献から1744年以降に設置したとされる。 頼泰は豊後に入国した初の大友氏当主で、元寇の戦いなどで活躍した。 市指定史跡。
毛利空桑は名を倹、字を慎甫(しんぽ)、通称到といい、空桑と号しました。 寛政9年(1797)1月15日肥後藩医毛利太玄の第二子として、大分郡高田郷常行(現在の鶴崎常行)に生まれました。 14歳で脇蘭室に入門し、27歳の時に福岡の亀井昭陽に学びました。28歳で郷里に帰り、家屋を建て居宅を三…
天台宗本宮山大山寺は、天長7年(830)宇佐八幡を勧請し、豊後一宮である柞原八幡宮を創立した金亀和尚によって開かれたと伝えられています。 国の指定重要文化財である、木造普賢延命菩薩坐像(もくぞうふげんえんめいぼさつざぞう)は、元々柞原八幡宮境内の普賢堂の本尊でしたが、明治初年の神仏分離の際、大山寺…
約500年前、九州地方で初めて浄土真宗の教えを伝えた天然上人(天然浄祐1442-1506)のお墓の場所が、東明野の天然町となっており、この地は天然塚と呼ばれています。 公園内は自然に囲まれ、広いグランド、ウォーキングコースがあり、周辺住民の憩いの公園となっています。
南蛮BVNGO交流館は”宗麟の生きた時代を体験できる施設”を コンセプトに、大友氏遺跡や大友宗麟の功績について、工夫を 凝らした展示や迫力のある映像等で紹介する施設です。 4つのゾーンがあり、それぞれ興味のあるゾーンで歴史体験を 楽しめます。 また、展望デッキか…
天文20年(1551)、宗麟の招きによって豊後府内を訪れたイエズス会の宣教師 フランシスコ・ザビエルは宗麟の許可を得てキリスト教の布教活動を始めました。 天文22年(1553)には府内教会(デウス堂)が建てられ、毎日ミサとともに 少年合唱隊がオルガンやビオラに合わせて聖歌を歌ったり、宗教劇…
別府市との境界近くにあり、「おさるの山」として有名な標高628mの高崎山の山頂に築かれています。 文和4年(1355)、足利尊氏にしたがって北朝に属した8代大友氏時に対して、南朝の懐良親王軍が日田から攻め込み、玖珠、由布、狭間を経て、国府(大分市)をおそいました。 この攻撃に大友館はひと…
太田の鶴迫という集落にあります。7体あり、中央の本尊は坐像で像高1.13m、他の6体は1m前後。 地元では 火防地蔵(ひぶせじぞう)とも呼ばれています。 年代は不明です。
大友宗麟・義統時代の雄大な池をもつ庭園の姿を復元しており、四季折々の花木が迎えてくれる。 庭園横には、宗麟公の功績を展示したり、 迫力ある映像などで紹介する施設『南蛮BVNGO交流館』 も隣接。
滝尾中学校のグラウンドの北側に面した崖にあり、史跡指定を受けている古墳群です。 火山層の崖に大小75穴が大体上下三段に並んで掘られており、遠くから見ると蜂の巣のように見えてなかなか壮観です。 古墳の入口の石蓋は、崩壊してありませんが、奥壁にある祭壇上の基段のあるもの、天上を寄棟にして家型石棺を模…
百合若大臣が豊後の国司であったとき、大臣に反逆を企てる者がいて、 大臣の外征中、お妃を殺そうとしましたが、万寿姫という家来の娘が お妃の身代わりになって蒋ヶ池〔まこもがいけ〕に沈められました。 のちに外征先から戻った百合若大臣が反逆者を成敗し、 万寿姫を弔って建てたのが万寿寺だといわれて…
<吉野臥龍梅の由来> 建久三年(1192年)京都より藤原信近がこの地に住んだ。その一子近里はある日山に薪を取りに行き誤って右脛を折った。たまたま異相の翁に逢い、その教えにより筑前(福岡県)大宰府に17日間参籠した。 満願の夜、夢の中に貴顕の士(菅原道真公)が現れ梅花一枝を賜った。近里はこれを持ち帰…