肥後藩主加藤清正公が、関ヶ原の戦功により授かった豊後鶴崎と熊本を結ぶ肥後街道です。 後に肥後藩主の細川公も参勤交代の道として利用しました。 その一部である石畳の道が今市に現在も残っており、当時の面影を色濃く残しています。 通称「今市の石畳」は、豊後岡藩の宿場として中川氏によって設けられ…
初代の名通上人が15歳のとき、父親順信と共に船で門司に向かっていたが、風波のため、佐賀関の古宮に上陸、古宮のお宮に参拝し、名通上人はそのまま当地に残り住みつき、元和元年(1615年)に父親順信が建てた沖ノ島の徳応寺を佐賀関に移し再建しました。 幕末期には、坂本龍馬、勝海舟の一行がこの寺を訪…
戸次川の古戦場跡には、武将・長曽我信親(ちょうそかべ のぶちか)の墓があります。旧存の碑が破損したため、西村亮吉(元 大分県知事)が新しく建設したものです(明治22年建立)。
佐賀関の半島の先の方に関崎海星館があり、さらに突端に関崎稲荷神社と灯台があります。 その灯台の近くに、関崎地蔵はあります。 養老年間(717~724年)に、役小角(えんのおづぬ:修験道の祖)により航海安全を祈願して祀られたことから「波除地蔵」の名があり、また「地蔵崎」とも呼ばれています。…
大分川流域で最大規模の小円墳です。 6世紀後半から7世紀初頭に造られた古墳で、横穴式石室内には家型石棺が安置されています。 大変貴重な古墳で、県指定史跡です。古墳は羨道部が長さ4m、幅1.7m、高さ1.5m、玄室は奥行2.5m、高さ2.1m。 大分市指定名木のムクノキが丑殿古墳(丑…
日本でも数少ない海の上の国道を往来します。 九州と四国の国道を結ぶことから名づけられた社名が 「国道九四フェリー(こくどきゅうしフェリー)」です。 九州の佐賀関と四国の三崎を最短航路で結び、 1日16便70分間で運行します。 佐賀関のターミナルビル1階には、売店があり出発前に大…
長曽我部信親は、安土桃山時代の武将で、土佐国の戦国大名である長曽我部元親の嫡男です。 天正14年(1586)12月、豊後へ侵入した薩摩の島津家久の軍勢と、豊後を死守しようとする大友宗麟・義統父子による戸次川の戦いがありました。 大友宗麟を助ける豊後・四国連合軍には、長曽我部元親・信親父子の他…
「白黒と 争う碁洞(ごとう)劫ノ浦(幸之浦) 波より他に 打つ人なし」の句です。 肥後の殿様がこの碁石の浜で詠ったといわれるもので、白黒の碁石浜の地名をうまく織りこんで詠っています。
日本庭園風の優雅な公園内には殉教記念碑と説明板が建てられ、豊後国におけるキリシタン殉教の歴史を教えてくれる。 かつて、府内の地は国主大友宗麟が保護したため、キリスト教が目覚しく繁栄したところである。 それだけに、ひとたび禁教の嵐が吹きすさんでは、その被害も大きく県下いたる所に尊い殉教の血…
古宮古墳は、大分自動車道のインターチェンジから東に約1.3キロ、 椎迫丘陵の南斜面の中腹に作られた南北約12.5メートル、東西約12メートルの方墳です。 墳丘は土砂の流出などによって石室が露出している部分があるなど、本来の姿は失われています。 古墳の造られた時期については、石室の形態な…
国指定史跡。天平13年聖武天皇の詔勅によって全国に建立された国分寺のひとつで、国の史跡に指定されている。スギの大木やカシ、シイなどの樹木に囲まれた森の中にあり、寺跡には薬師堂と観音堂が立っている。全国的にみて、上野国、相模国と並んで三指に数えられる規模という。この広大な旧寺域と見られる約5万平方メー…
正保2年(1645)の創建で、行方不明だった宇佐神宮神宝の剣が発見されたことに由来する 八幡宮です。 剣が発見されたことを聞いた肥後熊本藩主細川光尚公は嫡男綱利公の誕生にあわせ、これを吉事と喜び社殿造営を命じたといわれています。 …