別府市との境界近くにあり、「おさるの山」として有名な標高628mの高崎山の山頂に築かれています。 文和4年(1355)、足利尊氏にしたがって北朝に属した8代大友氏時に対して、南朝の懐良親王軍が日田から攻め込み、玖珠、由布、狭間を経て、国府(大分市)をおそいました。 この攻撃に大友館はひと…
太田の鶴迫という集落にあります。7体あり、中央の本尊は坐像で像高1.13m、他の6体は1m前後。 地元では 火防地蔵(ひぶせじぞう)とも呼ばれています。 年代は不明です。
大友宗麟・義統時代の雄大な池をもつ庭園の姿を復元しており、四季折々の花木が迎えてくれる。 庭園横には、宗麟公の功績を展示したり、 迫力ある映像などで紹介する施設『南蛮BVNGO交流館』 も隣接。
滝尾中学校のグラウンドの北側に面した崖にあり、史跡指定を受けている古墳群です。 火山層の崖に大小75穴が大体上下三段に並んで掘られており、遠くから見ると蜂の巣のように見えてなかなか壮観です。 古墳の入口の石蓋は、崩壊してありませんが、奥壁にある祭壇上の基段のあるもの、天上を寄棟にして家型石棺を模…
百合若大臣が豊後の国司であったとき、大臣に反逆を企てる者がいて、 大臣の外征中、お妃を殺そうとしましたが、万寿姫という家来の娘が お妃の身代わりになって蒋ヶ池〔まこもがいけ〕に沈められました。 のちに外征先から戻った百合若大臣が反逆者を成敗し、 万寿姫を弔って建てたのが万寿寺だといわれて…
<吉野臥龍梅の由来> 建久三年(1192年)京都より藤原信近がこの地に住んだ。その一子近里はある日山に薪を取りに行き誤って右脛を折った。たまたま異相の翁に逢い、その教えにより筑前(福岡県)大宰府に17日間参籠した。 満願の夜、夢の中に貴顕の士(菅原道真公)が現れ梅花一枝を賜った。近里はこれを持ち帰…
大分を代表する日本画家である福田平八郎(1892-1974)の生家跡。大分市名誉市民第一号でもあります。「雪」「鯛」で注目をあび、「漣(さざなみ)」で日本画に新しい手法をもたらしました。生家跡は現在小さな憩いの公園となっており、「鯉」「筍(たけのこ)」のレプリカが飾られています。
宇曽嶽神社について 標高640mの宇曽山頂にあり、子宝明神、虫封じの神として有名。 毎年の5月3日、5月4日、5月5日にお祭りを開催しております。
「ガランさま」「伽藍大明神」などと呼ばれている杵築神社と、小道を挟んだ向い側の崖に三つの窟龕がある。 なかにあるのが、大分市指定史跡(1974)の伽藍石仏である。 三つの石窟にある石仏は、鎌倉時代から室町時代の製作と推定されている。 大友氏時代、この一帯に太平寺という寺院(天台宗と伝えられる)…
大分元町石仏の西南約600m、龍ヶ鼻付近の崖にあります。 大分元町石仏同様に凝灰岩質で、特に岩質があらく、永年の風雨のため、 腹部から脚部に下る程侵食がはなはだしく、すでに輪郭をとどめていない像も少なくありません。 全部で十七体の磨崖仏から構成され、中央にあるひときわ大きな如来坐像(推定)…
公園の付近一帯は埋め立てられていますが、かつては浅瀬の波に洗われる美しい海浜でした。 平安時代、近くに春日神社の神宮寺という寺が建立されたところから、この名がついたといわれています。 天文年間(1532~1555)、ポルトガルや明との貿易を行った大友宗麟は、この浜辺を交易場として利用していた…
寛永18年(1641)、熊本藩主の細川光尚公の協力を得て開設。 参勤交代の際に休憩所として使われた書院、御殿など、江戸時代の伽藍をそのまま残しています。 巨大な輪蔵を内蔵する経蔵もあります。 (県指定有形文化財) …