大友氏400年の幕が閉じた後、豊臣秀吉は豊後国(ぶんごのくに)を七つに分割して馬廻衆(うままわりしゅう)に分け与えました。
慶長2年(1597)12万石を受封して臼杵城から府内に入った石田三成の妹婿、福原直高は、秀吉から築城の命を受け、四神相応の好地である荷落の地、現在の大分市の中心市街地にあたる大分川河口で築城にかかり、城と町の建設を進めました。
一方、大友氏の町の大半は新しい町へ移転させられ、海外との交易により隆盛を極めた町は終わりました。
築城の場所は「荷落(におろし)」という地名だったので築城後、縁起をかついで荷揚〔にあげ〕と改称としたといわれ、荷揚城(白雉〔はくち〕城)とも称しています。 直高は在城わずかで城を去り、代わって早川長敏が城主となりましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の役で石田三成(西軍)に味方して滅びました。
慶長6年(1601)竹中重利が城主となりました。 重利は秀吉腹心の知将竹中半兵衛重治の一族で豊臣家には深い恩義がありましたが、関ヶ原合戦の当時、豊後の諸侯の多くが西軍、もしくは中立の姿勢をとっている中で、いち早く情勢を判断して徳川方(東軍)に応じました。
慶長7年(1602)、重利は未完成の荷揚城に天守閣や楼閣など城の全容を完成させ、名を府内城と改めました。
元和元年(1615)重利は長子采女正重義(うねめのしょうしげよし)に家督を譲りました。
重義は、松平忠直の監視役や長崎奉行を兼務するなど要職につきましたが、奉行職当時の不正が発覚し、寛永11年(1634)、江戸に送られて切腹を命じられました。これにより、竹中家はわずか2代33年間で滅びました。 次いで、日根野吉明が城主となり、初瀬井路の開通、浜の市の市場開設、キリスト教の繁栄で荒廃した社寺の復興など数々の功績を残しましたが、跡取りがなく一代で終わりました。
万治元年(1658)、徳川家一門の松平忠昭〔ただあきら〕が府内城主となってからは騒然とした世情も平和をとりもどし、明治4年(1871)の廃藩置県までの約200年間、松平家の政権が続きました。
この間、寛保3年(1743)の大火によって、天守閣を初めとする城の施設の多くが焼失しましたが、その後、天守閣が再建されることはありませんでした。
現在は城址公園として市民に親しまれ、堀や石垣などが昔のままに残っており、石垣、土塀、堀、櫓(やぐら)2、櫓跡1が県の指定史跡になっています。
平成9年に山里丸と西の丸を結ぶ廊下橋が復元されました。
歴代城主
①福原直高(1597~1599)
②早川長敏(1599~1600)
③竹中重利(1601~1614)
④竹中重義(1615~1634)
⑤日根野吉明(1634~1656)
⑥松平(大給)忠昭(1658~1676)
⑦松平近陣〔ちかのぶ〕(1676~1705)
⑧松平近禎〔ちかよし〕(1705~1725)
⑨松平近貞〔ちかさだ〕(1725~1745)
⑩松平近形〔ちかなり〕(1745~1770)
⑪松平近儔〔ちかとも〕(1770~1804)
⑫松平近義〔ちかよし〕(1804~1807)
⑬松平近訓〔ちかくに〕(1807~1831)
⑭松平近信〔ちかのぶ〕(1831~1841)
⑮松平近説〔ちかよし〕(1841~1871)
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