凝灰岩の岩壁に立体の石仏が半肉彫りされている。中尊の薬師坐像の高さが約3メートルで[別名岩薬師]、[元町薬師]ともよばれている。平安末期(12世紀)の作と推定されるが、奈良時代、百済の僧日羅の作とする伝えもある。
詳細情報を見る境内地約5,000平方メートル、堂宇は、本堂、庫裏、山門、鐘楼、大師堂などを備えている。寺宝には、県指定有形文化財の紙本著色 図六曲屏風と絹本著色柿本人麿図がある。
詳細情報を見る高野山真言宗の寺。神亀4年(727)僧行基が聖武天皇の勅命により、荏隈郷(市内古国府)に一宇を建立した。これが当時の開基とされている。
徳治2年(1307)、大友氏六代真宗が奈良西大寺の幸尊を請じて、中興開山とし、寺基を今の大分市街の南、上野台に移した。
上野の丘陵の北側にあり、中世府内町を眺望できる位置に築造されている。こちらの大友館は顕徳町にある大友館とは異なり、現在も一部に巨大な堀跡、土塁が遺存し、防備にたけた戦国の館という姿様を今に伝えている。
詳細情報を見る元町石仏より北に約300メートル、県立芸術文化短期大学の東側崖地に大臣塚といわれる前方後円墳があります。現在前方部は防災工事のためほとんど失われているが、50メートルはあったと思われる後円部は完全に残っています。
詳細情報を見るキリシタン大名として知られる大友宗麟は、フランシスコ・ザビエルを招いてキリスト教に帰依し、少年使節団をローマ教皇に派遣しました。また、西洋の文物を積極的に取り入れた街づくりを行い、当時の大分は、日本における西洋文化の発信地としてめざましい発展をとげました。
宗麟像はこのほか南蛮貿易場として知られ「神宮寺浦公園」、「南蛮BVNGO交流館」、「コンパルホール(ロビー)」に銅像が設置されています。