別府市との境界近くにあり、「おさるの山」として有名な標高628mの高崎山の山頂に築かれています。
文和4年(1355)、足利尊氏にしたがって北朝に属した8代大友氏時に対して、南朝の懐良親王軍が日田から攻め込み、玖珠、由布、狭間を経て、国府(大分市)をおそいました。
この攻撃に大友館はひとたまりもなく陥落、南朝に降伏しました。この苦い経験から延文3年(1358)に急峻な高崎山に城を築いたといわれています。その後、氏時は、南朝に再び反旗をひるがえすと、怒った懐良親王軍は高崎城を攻めましたが、大友氏一族の志賀氏房に背後を襲われ、敗走しました。
延文4年(1359)、肥後の菊池武光が懐良親王とともに再度高崎城を攻撃しましたが、攻めおとすことはできませんでした。
九州では南朝の勢力が強大化する中で、高崎城は、北朝唯一の拠点となり、北朝勢力の再興に大きな役割を果たしました。天文13年(1544)末から翌年2月にかけて大友氏加判衆(家老)朽網親満が乱をおこし、一時高崎城に籠るものの、大友軍がこれを破っています。
天正14年(1586)島津軍の豊後侵入の際には、戸次川原の戦いに敗れた大友義統が逃げ込み、さらに豊前国竜王城に逃れています。
今も、当時の曲輪・堀切・畝状の空堀群などが良好に残っています。
また、山頂にある石積みされた筒形の施設は江戸時代に築かれた狼煙台の跡です。
高崎城は大分県を代表する中世山城で、大友館跡と並んで、大友氏関連の大切な遺跡です。
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